最終回 学ぶ姿勢に好き嫌いはナシ
そして、この経営法、コミュニケーション術にたどりつくまでに、一時たりとも忘れたことがなかったのは、学びたいという気持ちである。日本人の心、日本人の経営法を教授してくれようとした人たち、一緒に酒を飲んだ遊び友だち、そして妻に対しても、僕はいつも学ぶ姿勢を示してきたつもりだ。学ぶ気持ちを示すことは、相手に対する敬意の表れでもある。敬意を示されて嫌な思いをする人はまずいないだろう。
竹下さんが訪米の折に、聞くに耐えないほどの下手くそな英語で演説をしたのだって、アメリカ人への敬意の表れである。どんなにひどい発音でも、英語で話そうとしているのですよという姿勢は歓迎される。取引のほとんどが英語でなされているとしても、先方がつたない日本語でひと言「ありがとうございます」と言ってくれたら、日本人だって悪い気はしないだろう。愛情を感じるに違いない。どこの国の民族にも母国語への誇りがあるのだから。中曽根さんが訪仏の折にした演説は英語だったが、一ヵ所だけ「エクスキュゼ・ムワ」とフランス語を入れたところがあった。ユーモアであり、ご愛嬌なのだが、これも好意的に受けとめられたはずである。ちょっとした敬意が人の心を開かせるのだ。
「歌舞伎を見に行きませんか」という誘いをたまにうけることがある。実は、僕は何度も歌舞伎を見ているのだが、どうも肌にあわない。第一、科白の意味もわからないのだ。だが、まだ真のコミュニケーションが成立していない人からの誘いを、僕はまず断ったりしない。誘うほうは自分の文化を誇りに思い、ガイジンの僕にそれを紹介してあげようと善意で言ってくれているのである。異文化間コミュニケーションの重要性を口にしながら、その異文化に触れるチャンスを提供してくれようとする誘いを断るのは、上策ではないどころか矛盾している。何でも見てやろう、経験してやろうという姿勢を示すことこそ、学ぶ気持ちを伝えることになるからだ。
「フットボールを見に行きませんか」 とアメリカで誘われたら、とにかく行ってみることである。「ルールがわからないし……」 などとウジウジしていては何もはじまらない。「ええ、喜んで」 と答えたことで、僕は日本の文化をずいぶん楽しめるようになっている。歌舞伎はダメだったが、相撲は好きだし、日本庭園の落ちつきには、ほっとするものがある。ちょっとした敬意を示して相手に付き合ったことで、僕自身の趣味も広がり、精神生活も豊かになった。
僕は、異文化の狭間で傷つき、悩み、「歌舞伎は苦手でねえ」と日本人どうしが交わすような会話を日本人の友人とできる、僕の主張である「間間ベースのコミュニケーション」を達成するまでに三十年かかった。そして、冒頭で触れた講演の依頼をきっかけに、僕のコミュニケーションの在り方を発見できたのだ。自分の三十年間の体験を整理することで「見えてきた」ということもできる。おかげで、他人が直面している問題が実はどういう問題であるかということを分析することも可能になった。本書を読んで、皆さんが抱えている問題を解くカギを見つけてくだされば幸いである。そして外国人との円満な付き合いが可能になれば、それこそ望外の喜びである。