コラム

クジラの世渡り

第74回 猿まねで違いを克服できるか

接点を多く見つければコミュニケーション上の障壁も少なくなることはわかったが、逆に相違点がどんどんはっきりしてくることだってある。その場合は、コミュニケーションもまずくなってしまうのだろうか。ウディ・アレンの映画について話をしているうちにすっかり意気投合して、しだいに心が開き、さらにあれこれ話すうちに、今度はずいぶん視点に相違があったことに気づいたとしよう。ここで、やっぱりアメリカ人だからなあ、と国籍の問題にしてしまってはつまらない。これでは元の木阿彌である。「なるほど、そういう見方もあったのか」と、今後の映画鑑賞の一つの参考にしてしまうのである。違いを新しい発見としてとらえればいいのだ。

僕は、なにも猿まねをしろと言っているのではない。僕も、日本人になりたいと思っていたら何も見えてこなかったであろう。日本人とはここが違うと認識して、それからが始まりだった。つまり、違いを吸収して、その上で自分を造ってしまえ、というわけだ。「クディラさんの会社は、アメリカ的経営をしていないから」と、時どき批判されることがある。確かに、僕の会社はアメリカ的な発想の上に成り立っているとは言えまい。かといって、日本的経営をしているわけでもない。双方の接点をまず知り、それを土台にした上で、違いを克服していった。相違点のうち、なるほどと思われるところは、日本式、米国式を問わず採用していった結果が今の僕の会社経営法である。たとえば給料はアメリカ方式である。同じ年収なら、ボーナスとしてまとめてもらって月々の給料が安くなるより、年収を十二ヵ月に等分してもらったほうが合理的で自主管理しやすい、という要求が社員からもあったのでアメリカ方式を採り入れた。

社員と食事をしたり飲みに行ったりするところは、正に日本式である。日本人社員の本音を聞けるし、今ではアメリカ人社員も、このコミュニケーションの場を利用する術を覚えてきた。「今夜あたり、一杯どうかね」と僕が声をかけると、当初はアメリカ人社員なら、「いったいどういうお話でしょう」 とコチコチに構えていたものだが、最近では、「社長、たまには付き合ってくださいよ」 などと逆に言われ、いいように不満をぶちまけられたりもしているのである。僕のコミュニケーションの仕方が、経営の場面でも生きていると思っている。

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