コラム

クジラの世渡り

第1回 日本上陸

「異文化間コミュニケーションについて二時間ほど話してくださいませんか」

こうした講演の依頼がよくくる。おそらく、在日三十年*という長さに依頼主は期待しているのだろう。だが、あいにく僕は言語学にも、文化人類学にも、心理学にも精通しているわけではない。ビジネスの世界ではこわい者なしと自負している僕だが、インターカルチュラル・スペシャリストとは、とても言えるものではない。
それでもこうした講演を引き受けるのは、僕の話が多少なりとも役に立ち、そのことによって、我われ在日外国人ビジネスマンとのコミュニケーションが改善される方向にいけば、こっちも仕事がやりやすくなり、お互いのメリットになるのではないか、と考えるからである。
そして、本書を著す気になったのもまったく同じ気持ちからである。

僕はまず、初めて日本に来たときのことから思い出してみることにした。
初めて日本の土を踏んだのは朝鮮戦争のころであった。僕は、東洋に憧れ、東洋の神秘を知りたくて、はるばる海をこえてやってきた文学青年ではなかった。親の反対を押し切って海兵隊に入隊した、単なる愛国青年にすぎなかった。日本についての予備知識もない、もちろん日本語も知らない海兵隊員にすぎなかった。
軍の生活は厳しく、親の反対ももっともだったと半ば後悔しながら、引くに引けない心境で戦線に加わったあげくの来日である。来日そのものには深い思い入れもなかった。

当時の日本(御殿場)は、デコボコ道に馬糞が落ちていて、水洗トイレひとつ見つけるのも難しい状況だった。御殿場から岩国に電話一本入れるのに、交換台を通して、数時間も待たされるという貧しい国だった。
しかし、期待感などなかったのが幸いしてか、この貧しさは僕にとって温かく感じられた。
富士山麓の基地から御殿場の町へ出ようと山を下って行ったときのことはいまでも鮮やかに思い出す。芝刈姿のおじいさんが僕の先方を歩いていた。そこへもんぺ姿のおばあさんが、桶が二個ぶらさがった例の運搬器をかついで向こうからやってきた。すれちがいざま、おばあさんはおじいさんに言った。

「OHIO!」。おじいさんも「OHIO!」と言った。

日本のこんな田舎で朝っぱらからアメリカの州が話題になるなんて。ふたりとも地理に格別くわしいというのでもなかろう。ひょっとしてこれは、と思い当たった。
山を下ったところで、僕らは喫茶店に入った。マスターは、米兵が何しにきたといわんばかりに無愛想。そこで僕は、思い切って言ってみた。「OHIO!」

「おはよう、おはよう」
マスターの機嫌が急に良くなった。

僕が初めて覚えた日本語だった。確信はなかったのだが、思い切って使ったことが一つの経験となり、その経験が僕に小さな成功、つまリマスターとのコミュニケーションが成立したという結果をもたらした。日本語が、急に身近に感じられたのだった。 海兵隊を退役し、国から奨学金をもらえることになるやいなや、僕は日本で勉強する道を選んでいた。

*1988年初版発行

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