第4回 カタカナで表記されたコミュニケーション
「今度新しく入った彼女、なかなかグラマーだね」
オフィスを訪ねて来た友人が言う。僕は、「へっ!?」と一瞬いぶかしく思いながら彼女を見て、やっと彼の「グラマー」の意を理解した。「肉体派」という意味だったのだ。
英語のglamourは、単に「美形」「美人」ということで、必ずしも「豊満」なという意味合いはない。
日本語は実に便利にできていて、ちょっと訳しにくい外国語はカタカナで表記してどんどん組み込んでゆく。グラマー、セクシーからアセスメント、コンセンサス、アイデンティティー、コミットメント、プライバシー……。
いったんカタカナにされた外国語は、外来語という日本語の一つとして一人歩きしてゆく。語本来の意味と微妙にズレながら。
「コミュニケーション」もその一つだ。
島国だった日本は、コミュニケーションという言葉がなくてもコミュニケーションできていた。いわばコミュニケーションは空気のような存在だったのだ。あえて意識しなくてもよかったのだ。
だが、他国との交流が盛んになると、空気のような存在だったはずのものを意識せざるをえなくなる。そこでコミュニケーションという概念が導入され、「伝達」「連絡」「通信」「意思の疎通」「対話」などの広がりをもつ言葉として日本語になっていった。
その広がりはどれも本来の意味と矛盾するものではないのだが、その基本的な意味あいへの理解が、日本語の場合は不足しているように思われる。
それは「立場」ということである。二つの「立場」があって初めて「コミュニケーション」があるのだ。
「立場」は個人と個人であったり、企業と企業であったり、国家と国家であったりする。が、基本的には二つの「立場」があることを前提としているのだ。
最も単純な個人の場合を考えてみたい。
ある立場の人間が別の立場の人間に何かを表現する。その表現を見て、聞いて、感じて、あるいは触れて、一方の人間は然るべき対応をする。その対応に、また反応し…これがコミュニケーションの基本的なスタイルである。強いていえば「やりとり」と言うこともできよう。あるいは「回路」と言ってもよいだろう。