第8回 げにおそろしきは先入観
ところが、人間はセマンティクスばかりを追究しながら生活しているわけではない。
タクシーに乗ったとき、こんなことがあった。
「どちらまで」運転手が振り返って聞く。
「京橋の交差点」
「え?」すでに運転手の目は丸くなっている。
「この道、真っすぐ行って、ホラ、京橋の交差点」
「は?」
僕はそうハンサムではないけれど、ソノテの筋と思われるほどの人相ではない。日本語だって、在日30年で、商談も十分こなせる実力だと自負している。なのに、タクシーに乗って目的地すら伝えることができないなんて。少々ムっとしながら、三度目にはついにこう言った。
「ねえ、僕は日本語で言っているのよ。この道を真っすぐ。これでわからなければ、いったい何語を使えというの?」
ここで、やっと運転手の目が覚めた。
「ああ、日本語、日本語ね。わかる、わかる・・・・・・」
どうやら、体の大きいガイジンというだけで彼の聴覚はイカれてしまったらしい。
これは彼の心理的な圧迫、その先入観がコミュニケーション回路に抵抗を加えてしまったからだ。
日本はほぼ単一民族で、顔つき、肌の色、髪、目の色もそう大差がない。まず、その共通基盤のもとにコミュニケーションがなされている。視覚的な共通基盤が、ここ日本ではコミュニケーションに一つの重要な役割を果たしていることがうかがえる。
では、単一民族とはほど遠い米国ではどうだろう。
たとえば見知らぬ米国の都市で道に迷ったとき、僕はだれに道をたずねるだろうか。どんな髪の色をしていようと、目の色をしていようと、どこから見ても東洋人であったとしても、僕は道で出会った人に英語で道順をたずねる。むろん、親切そうな人かどうかを少しは考慮するけれども。
これは僕ら米国人がコミュニケーション術に勝れているからというわけではない。単に歴史的背景から、視覚的な共通基盤には無頓着になっているということだ。どんな姿をしていようと英語が通じると米国人は思っている。視覚的な違いに慣れきっているのである。日本人の例のタクシー・ドライバーも、いく度もいく度もガイジンを乗せることで、視覚的な違いには大して意味がないことにおそらく気づいてゆくだろう。
だが視覚以外のところでは、共通基盤はなかなか根強い。これは日本だって米国だって、そして世界じゅう同じだろう。
たとえば、就職試験の面接がそうだ。同じ条件の二人がいて、一方が自分の大学の後輩だったら、その後輩のほうに肩入れしたくなるのが人情というものだ。この僕にも「人情」がある。
うちのオフィスで人を雇うとき、アメリカ人ならまず面接するときの気分がずいぶん楽だ。しかも僕と同じニュージャージー州の出身となると、かなり話ができそうな気分になる。さらに僕の母校ビラノバ大学の出ときたら、もう兄弟じゃないか、ということになる。その上、海兵隊の経験アリとまで言われたら、即座に僕は採用してしまうだろう。
共通基盤をうまく見い出せるかどうかは、コミュニケーションの一つのカギだ。同じ民族、同じ国がら、同じ教育、同じ食べ物、同じ本、同じTV番組など、同じ文化を基盤にして立っていると思うこと自体が、一つの先入観としてコミュニケーションにプラスに働くのである。
だから、同じ文化を背負っていないという先入観は、心を閉ざす方向に作用し、おのずとコミュニケーションの効率は下がってしまうのである。
だから、我われが異文化の人間とコミュニケーションをはかるときにまず気をつけねばならぬことは、共通基盤に立っていないという事実を、少なくともマイナス方向に働かせない努力である。