コラム

クジラの世渡り

第9回 まずは言葉から

セマンティクスだの共通基盤だのと言っても、同じ文化圏内ですごす日常生活では、いちいちそんなことを意識してはいられない。意識せずにやりすごせるから、生活が営めるともいえる。
たとえ何か問題が生じたとしても、「ウマがあわない」「フィーリングがあわない」などという表現ですませてしまうか、「あいつはいつもああなんだから」などと斬り捨ててしまったり、「一生懸命やったさ」という自己満足で終止符をうったりなど、いろいろな逃げ道を用意している。

だが、いざ異文化間コミュニケーションの問題となると、事態はそれほど簡単ではない。「アメリカ人はいつもああなんだから」とか「一生懸命やってきたんだから」というだけでは、日本はもう逃げきることはできないのだ。世界における日本の立場は、もはや、そんなことが許される立場ではない。
現実はここまできているのに、まだなお、異文化間コミュニケーションに関する種々の問題は未解決のまま山積みにされている。学問的レベルではこのところ急速に進歩したのだろうが、僕ら一般人のレベルでは、問題自体がいったいどこにあるのかすらはっきりしていないのだ。

共通基盤はあやふやで、とくにほぼ単一民族の日本人にとっては、違いばかりが目についてしまうのが異文化というものだろう。
セマンティクスまで掘り下げる以前の、言葉の問題もある。

異文化間コミュニケーションを語ろうとするとき、この「言葉」の問題は、誰しもがまず最初に考えることだろう。事実、少し前までは、大学レベルですらコミュニケーションの問題イコール「言葉」の問題としてとらえていたくらいなのだから。

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