第10回 手まねきしたら嫌われる!!
では、いったい言葉とはどんなものをいうのだろうか。いろいろな層に分けて考えてみたい。
まずnon-spoken language。まだ「言葉」ともいえないような言葉。合図だとか、体の動きなどのことである。
このnon-spoken languageの中にも様ざまなものがある。
まず、意味のないもの。たとえば、日本人の「ふーっ」。単に大きく息を吐いている、とアメリカ人なら思うだろう。だが、当の日本人にとっては、これから言うことが少々面倒なことですよとか、難しいことに取りくんでいるんです、などということを伝えたいことも、間々あるだろう。ということが、僕はやっとこのごろわかってきたのだが、この「ふーっ」は一般のアメリカ人にはまず通じない。
こういう層のnon-spoken languageがまずある。
また、こんな層もある。
僕が日本入の友人との約束に遅刻したときのことである。先方が遅れてきた私の姿を認めて、手で合図した。僕は彼の手振りを見て、これはかなり怒っているなと判断し、平あやまりにあやまった。
ところが相手は、「このくらい大丈夫、大丈夫」と笑顔の返事。
僕はここで、彼の手による合図は「こちらですよ」という「手まねき」だと知ったのだった。アメリカで日本流の手まねきをしたら、「あっちに行け」の意味なのだ。
このように、まったく意味が逆になるnon-spoken languageもあるし、また、意味がまったく同じというものもある。
指一本が「1」、二本が「2」・・・・・・これはほとんど万国共通ではないだろうか。
中国でこんなことがあった。広東空港で乗り継ぎがうまくゆかず、タクシーを使うことにした。香港までタクシーで行こうとしたのだ。
「いくらだ」とたずねると、運転手は指を四本出す。400元ということだ。僕は手を横に振って、指二本を出す。先方は、また指四本。僕は指二本。折り合いがつかないので、僕が別のタクシーを探そうと歩き出すと、彼は肩をつかんできた。「待て」ということである。次に相手が示したのは、指三本と一本の指を半分に切るしぐさだった。「350元」ということだった。僕は、またも指二本。こんなやりとりをくり返し、ついに200元に値切ったことがあった。
いわゆる言葉をまったく知らなくても、non-spoken languageでコミュニケーションに成功したのだ。
このように意味が完全に一致しているものは楽だ。また、まったく逆のものもわりと扱いやすい。
よほど鈍感でもないかぎり、二、三度経験すればわかってくる。
問題は、あるときは異文化間による相違がなく、あるときには違ってしまうという代物だ。
「うなずく」という動作がある。「同意する」という意味では、日本もアメリカも同じである。「わかった」という意味を示したくて「うなずく」のも日米共通だ。
ところが、日本入の「うなずき」には、また別の意味を表す「うなずき」がある。
「おつきあい」だ。同意していなくとも、また相手の真意がわからなくても、相手を傷つけたくないというだけでうなずいている場合がよくある。
このうなずきに僕は何度だまされたことか。
最初は大学で教えていたころである。
目と目があうと、学生諸君はいちいち笑顔でうなずいてくれる。日本の学生は素直だし、よく授業を理解してくれるし、アメリカの学生とは大違い。日本に来て教師になって本当によかった、と僕が自分の決断に満足できたのはわずか三ヶ月間だった。教えはじめて三ヶ月後に試験をしたら、どの学生もうなずいていたのに、ほとんど授業を理解していなかったのである。わからないなら、わからないと言え。日本人学生は少しも素直ではない、と180度考えを変えた僕は、とにもかくにも、学生のうなずきはあてにならない、と肝に銘じたのだった。
だが、この当てにならない「うなずき」はあくまで学生にかぎったことで、立派な社会人の場合は別だと思っていた。
オフィスを開いたばかりのころである。プレゼンテーションの最中、先方がよくうなずいてくれるのを見て、僕は手ごたえありと確信していた。このプレゼンで通る、と何度期待したことだろう。ところが、最終的な結論は「ノー」。日本人のおもわせぶりにひっかかった、日本人は信用できない、と何度不信感に陥ったか知れやしない。
何度も痛い目にあって、僕は考えた。
日本人のうなずきはいったい何なのだ?僕らとちがった意味のうなずきがあるんじゃないか。
日本人の笑顔もなかなかの難物だ。うれしいとき、おもしろいときに笑顔を見せるのは世界じゅういっしょである。アフリカの飢えた子どもたちがふと垣間みせる笑顔に熱い思いを抱くのは、僕も日本人も同じだ。
だが、日本人の笑顔には多くの含みがある。
僕が軍にいたころだからかなり昔の話だが、僕は新車のルノーを運転していた。そこへ、信号を無視してつっ込んできた車にぶつけられた。運転していたのは日本人だった。
自動車事故そのものが珍しい時代である。しかも、アメリカ人ドライバーの運転する車に日本人ドライバーがぶつけた事故である。警察が来る。MPが来る。通訳が来る。まさに、インターナショナルな太事件となった。
新車をぶつけられた上に、これから長時間に及ぶ事後処理のわずらわしさを思うと、腹わたの煮えくり返る思いで僕は車から飛び出した。
「どういうつもりなんだ!!」と、英語でわめきたてる。
相手のドライバーは僕の肩ほどの背丈の小柄な男性だった。大男が頭から湯気をたてて怒っているのである。恐怖におびえ、泣き出しても不思議はなかった。
だが、彼の顔に浮かんだのは笑みだった。
その笑みは怒りの炎に油を注ぐ結果となった。おまわりさんが間に入ってくれなければ、事態はいっそう複雑なものになっていたに違いない。
当時、僕は知らなかったのだ。日本人というのは、本当に困り果てたときに複雑な笑顔を浮かべることがあるなどとは。
苦笑い、照れ笑い、泣き笑い、愛想笑い。日本人の笑顔には、何とバリエーションが多いことだろう。
non-spoken language と body language は両刃の剣である。コミュニケーションをプラスに作用させる可能性があるかわりに、マイナス要素として働いてしまう可能性ももっているのだ。とくに難しい場面での一つひとつのしぐさには、十分な注意が必要だ。二重人格、お調子者とレッテルをはられる「うなずき」や、人格を疑われ、信用を失くしてしまう「笑顔」もあることを忘れてはならない。