コラム

クジラの世渡り

第11回 意昧の落とし穴

異文化間コミュニケーションでは、無意識のうちに使われるbody languageを意識にのぼらせる必要がある。
では、意識的になされるはずの発語、すなわち普通の意味での言葉には、どんな問題があるのだろうか。
言葉は、覚えれば覚えるほどコミュニケーションの役に立つ。これは当然のことである。だが、言葉を覚えるにあたって、思わぬ落とし穴があるのである。
「犬」はdog、「学校」はschool。そうそう、dogには「下らないやつ」っていう意味もあったな。
schoolには「流派」の意味もある。こんな対応をさせていると、落とし穴にはまる危険が増してくるのだ。

第一の落とし穴は「訳」。つまり、translation gapである。
日本人は朝、「いってまいります」「いってらっしゃい」の声で出勤し、「ただいま」「お帰りなさい」の声で帰宅する。
あるいは、「いただきます」と言って食べはじめ、「ごちそうさま」と言って箸を置く。
これらの日本語に対応する英語は何か。先ほどのdogやschoolのように、何か決まった英語に対応させられるはずだ。その英語は何だろう。こう考えていると、見事に落とし穴にはまりこんでしまう。
これらの日本語に対応する英語は、実は、ない。「いってまいります」という英語はない。「いただきます」もない。いわば、訳せないことば、語と語の対応だけでは訳せない言い回しである。

確かに訳せない表現ではあるのだが、かといって、僕らアメリカ人が無言のうちに出勤し、帰宅しても無言、というわけではない。ただ、日本語のような決まり文句がないのである。
つまり、挨拶という定まった文句のかわりに、各人がその場その場で表現をつくってゆくのである。
ある家庭では食事の前に全員でお祈りをする。ある家庭では「うわ、おいしそう」「これ、大好きなんだ」などと言うかもしれない。
遊びに出かける息子に、「楽しんでいらっしゃい」と声をかけて送り出す親もあれば、「約束の時間までに必ず帰ってくるのよ」と一言注意する親もいる。出勤する夫に「今夜はあなたの大好物よ、楽しみにしてらしてね」と言ってくれる妻だっている。
アメリカ人には、いつでもどこでも、人と同じ決まり文句ですませることに抵抗を感じてしまうところがあるらしい。口先だけの言葉でなく、自分の気持ちを自分の言葉で表現することこそ人間らしい温かい心や誠実さの表れなのだ、という思いが決まり文句を拒んでいるのかもしれない。

また外国語を即座にカタカナにしてとり入れてしまう日本語の機能性も英語には欠けている。kimono, sogoshosha, haikuなど、一部の日本語はローマ字にされて輸入されたが、日本語における外来語の氾濫の比ではない。だから、英語で異文化圏の表現を伝えようとすれば、各人各人が自分の表現をつくってゆかねばならないのである。
日本語でいう「渋い中年」などという言い回しは、とても形容詞プラス名詞の二語で表現できるものではないのだ。shibuiなどと表記してみてもはじまらない。和英辞書をひいてみたところで、ぴったりとくる語は見つからないだろう。

一対一の対応が必ずある。辞書に何でも書いてあるはずだ。そんな思いこみがtranslation gapの落とし穴に誘い込む。まずtranslation gapが存在することを頭にたたきこんで、それからである。辞書を道具としてフルに活用し、各々の表現をつくり上げるのは。

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