第12回 「我われ日本人は・・・・・・」の悪いクセ
「犬」はdogと、うまい対応が見つかったとしても、それだけで安心していたらもう一つの落とし穴にはまってしまう。
「キミはいったいどういうつもりなんだ」
海兵隊の教室で叱られたことがあった。
「We did it....」
「君は妊娠しているのかね。私はキミのことをたずねているんだ」
教官と僕との会話はこのようにしてはじまった。
教官が僕のしでかしたことに腹を立てていたのはもちろんだが、それに対応した僕が、”we”を使って答えたことで、ますますムッときたのだ。お腹に赤ちゃんがいるわけでもないのなら、自分のことは“I”と言えというのである。“we”と言った僕は、複数主語を使うことによって自分の責任を他人に転嫁させようとしている、と受けとられたのだ。男らしくない奴だ、卑怯者だ、と。
英語の“we”にはこのようなニュアンスがある。また、自信がない、あるいは自分だけでなく大勢をもちだすことによって圧力をかけている、というニュアンスもある。
日本語の「我われ」とはかなり違うだろう。
日本語の「我われ」は、謙遜をこめて、相手の気持ちを傷つけないように遠回しに用いられることがよくある。「私どもはかようには考えておりません」などは、失礼にならない否定の仕方だ。第一、日本では「私は」「私は」、「俺は」「俺は」という言い方は、教養ある人にふさわしくないとされている。
この日本流の「私ども」の表現がすっかりしみついた教養人は、対アメリカ人にもつい“we”と口走ってしまう。
ところが、聞く側のアメリカ人は先のように、責任回避のイメージを抱いてしまうのである。
“We Japanese…”
とやられると、まずアメリカ人の血圧は60はとび上がるだろう。何だ、総理大臣のつもりか、国民を代表しているのか、とカチンとくるのである。Nationalistic egoism 「国民性のエゴ」だ、と思われても仕方がない。
「we=我われ」という対応がみつかったと安心していると、このザマなのである。この落とし穴はtranslation aberrationつまり訳出の収差ともいうべきものだ。訳してしまうとどうも違った感じ、ヘンな雰囲気、ニュアンスが違うのよねえ、というやつである。