コラム

クジラの世渡り

第17回 言葉はコミュニケーションの一部にすぎない(1)

国際化時代といわれている。街にガイジンの姿も多くなった。ガイジンの話すナマの外国語を耳にする機会も増えたに違いない。
第一、円高という背景もあって、海外旅行者の数はうなぎ昇りだ。日常会話くらいならこなせます、という人も多い。
国際会議では優秀な通訳者がつき、各種パンフレットに英文の記述はつきものだ。しかも、その記述には、きちんとインフォーマント・チェックがなされる。
国際会議などという大がかりなものでなくとも、大手企業では、日ごろから外国人スタッフを雇い入れて、言葉の障害を取り除こうという努力をすでにはじめている。
十年前と比べたら、たいへんな進歩である。

もし、言葉が異文化問コミュニケーションのすべてだとしたら、状況も十年前よりはるかに良くなっているはずだ。
だが、現実は十年前よりもずっと厳しい。お金をかけ、人手をかけて、言葉から生じる問題を処理してきたのに、それでも現実はなお厳しくなるばかりなのだ。今の日米摩擦のどこに言葉の問題があろうか。
人々はようやくこの事実に気づきはじめ、言葉ができれば世界じゅうどこででもやってゆけるはずだ、という信仰が崩れだした。このことは、たとえば大学に異文化の講座が増え、異文化学科というものが新設されたりしていることからもうかがえる。単なる言語という問題だけではとらえきれないものの存在を、僕らはもう知ってしまったのだ。
この存在は、異文化との接触においては言語の存在があまりにも大きかったがために見つけにくかったのだが、同じ文化圏におけるコミュニケーションを考えてみれば、容易に察しがつこうというものだ。

同じ言語を使用する日本人どうしの間でも、世代の違いによってコミュニケーションがうまくいかない、いわゆるジェネレーション・ギャップが存在している。とくに近年は、新人類なるものが企業内でもとかく問題となり、彼らといかにコミュニケートしていくかということで、おじさん社員たちは真剣に悩んでいる。
こうした言葉以外の問題はとうぜん外国人とのコミュニケーションにも生じることを理解していてよいはずであったのだが、言語上の問題を解決するのに汲汲としていた、というのが現実ではないだろうか。

グローバルコミュニケーション研修のことなら何でもご相談ください。

PageTOP