第19回 日本紳士は紺色がお好き
リクルートファッションというのがある、とは聞いていた。だが、せいぜいマスコミが大げさに騒いでいるにすぎない、と思っていた。
ところが、八年ほど前から新入社員を対象にした講演をやりはじめて、マスコミがつくり出しただけの現象ではないとわかった。なにせ、会場には何百人もいるというのに、紺一色なのである。若干の濃淡があるものの、茶系やグレーの背広はまず見当たらない。壇上から目を凝らしてみると、ネクタイはほとんどがエンジだ。
講演会のパンフレットに服装の規定でも入っているのかと、家に帰って読み返してみたのだが、もちろんそんな記述はなかった。社会人になるのだから背広の一着でも新調しようとデパートに出向くと、デパートの店員はたいていこう言うらしい。
「紺の背広にエンジのネクタイがフレッシュな感じをよく出せますよ。皆さん、ほとんど紺の背広とエンジのネクタイをお求めになります」
こう言われると、付き添いの母親は二十歳すぎの息子に、「無難なものがいちばん。目立って損することはないわ」と助言するらしい。
この日本では、「無難な服装」が幅をきかせる。
入学式では制服の子供同様、付き添いの母親たちも一様の格好をしているし、結婚式だって、男性は黒のスーツに白のネクタイと決まっている。女性の和服にいたっては、この場合は振り袖、このときは訪問着、紬ではダメだの、あげくは帯で格を表すなどともいう。
服装の規定などなくっても、慣習的に決まっているのだ。そして、慣習を無視した人間は協調性に欠けるエゴイスト、非常識ということになる。つまり、「社会的圧力」が働く仕組みになっている。
一方、米国はどうかといえば、多民族国家のせいか、共通の慣習、それがもつ社会的意味を確立できなかったから、服装などてんでんばらばら。銀行員もカタカナ職業の人も好き勝手な服を着ている。皆と同じ服を着るなんて個性のなさを示しているようなもの、と思っているのだ。
だから、米国の社会生活では明文化された法律が必要となる。
日本には、母親が子どもを叱るときの文句に「世間に笑われますよ」というのがあるが、僕らの国だったら「おまわりさんが来ますよ」「刑務所に入れられますよ」ということになる。
どちらが良くてどちらが悪いという問題ではない。「世間に笑われる」という暗黙のうちの協調社会が日本、これでもか、これでもかと規定を作って、「おまわりさんにつかまるよ」という法社会が米国なのだ。
考えてみると、米国では、出世をした年配者ほど型にはまった格好をするものだ。己れの協調性とステータスを示そうというハラらしい。アメリカ人エグゼクティブが長年かかって到達した「協調性の思想」を、この国では若者がやすやすと身につけている。
ここまで思い至ったとき、僕は、新入社員を対象に講演するときの背広を紺にすることにした。ガイジンの協調性も見せようという作戦である。
だがエンジのネクタイは、一度結んだだけで、止すことにした。ネクタイくらい個性を主張したっていいじゃないか、と僕の心の中で「米国人クディラ」が頭をもたげはじめたからだった。自分のオシャレのセンスを完全に抑し殺すことはとうていできなかったのだ。