第20回 契約書、このあってなきがごときもの
協調社会ニッポンという思いは、契約書を作成するときにもっとも強く感じる。
つい最近、アメリカの会社と契約することになった。
「支払い日は何日に」
「期日までに支払わない場合の罰則はどうするのか」
「倒産した場合の扱いは?」
アメリカ企業の質問は、矢継ぎ早だ。しかも日本人にとっては苦手とする質問が多い。
これから取引をしようという関係なのに、「不払い」「倒産」など不吉な言葉が飛びかっているのだ。
日本式の、手を打ってシャンシャンシャンといった雰囲気など微塵もないのだから、日本人が堅くなって、うまく対応できないのも無理はない。
だが、欧米人にとっては契約書に書かれた以外の事項が発生するというのは大問題である。あらゆるケースを考慮に入れて、万全の策をとりたいのだ。
そうでなければ、彼らは自分を守ることができないからである。契約の上ではじめて関係が生まれる国では、契約がすべてだ。日本のように、関係が生まれて、それから契約するという社会とは大きく違うのである。
あらゆる事態に対処できる契約を結ぶには、膨大な言葉が必要である。同じ契約書でも、日本人どうしが交わす契約書の何倍もの厚さになっている。
一方、日本人の作る契約書は、基本事項の覚え書のようなものだ。一、一、と並べてはいるが、たいていの場合、必要なのは末尾の一文だけである。
『この契約期間中に問題が生じた場合は、双方の話し合いによって円満解決をはかる』
協調社会でのこの一文は、実にうまくできている。欧米の契約は打ち切ればそれで終わりなのに対し、この日本の契約は、そうではない。契約を打ち切っても、関係は打ち切ることができない。
合理的なように思える欧米の契約も、一つの企業の在り方としては、なかなか厳しい側面がある。
僕は、このことに気づいて以来、日本的な契約を結ぶことにした。契約書など作らないことも多い。
この国では、紳士協定がまだまだ生きているのだ。僕はそう信じ、友好関係を結ぶことのほうを優先してきた。契約を結ぶより友好関係を結ぶほうが、この国では得策である。そして、今のところ裏切られたことはない。