コラム

クジラの世渡り

第22回 モノクロの世界、アメリカ

契約社会とは、別の言葉で言えば、必要なことをすべて表面に出してゆく社会である。言葉として表現してしまう社会である。
「そんなの常識でしょ」
と言つても、
「じゃあ、常識って何?どこに書いてある」
と思ってしまうのが欧米人なのだ。
だからすぐに「法律」となるのである、「村八分」などはないから、法によって白黒をつけてもらうのだ。

日本人にとっては、法律はそう意識にのぼらせなくてもすむものである。いつもいつも法律や規則を守ろうとしなくても、無言の圧力や規範が社会を支えている。中曽根さんの言ったように、島国で多民族国家でないことが、この日本の風土を作ったのだろう。
アメリカは人種のちゃんこ鍋である。あまりにも多様な人間がいっしょにやってゆくためには、言葉にした明確なルールが必要だった。そしてこのことは、建国二百年以上たった現在でも、いっこうに崩れることなく、むしろ強固になっている。

弁護士の数でいえば、日本が二万数千人に一人というのに対し、米国は四百数十人に一人という割合である。弁護士は、米国で最も多い職業の一つということになる。
はっきりさせたい、白黒をつけたいという思いは、法律がらみにとどまるものではない。
たとえば野球である。
日本の野球には「引き分け」がある。初めて「引き分け試合」を見たとき、僕はただただ驚いた。
選手は勝つためにゲームをしているのではないか。ファンはなぜ怒らないのだろう。アメリカでは、23回の裏までもやる。時計が12時を回ってもやりつづけるのだ。
アメリカでは、勝ち負けをはっきりさせない、白黒をつけないことは「悪」である。逆に言えば、白黒をはっきりさせることが目標なのだ。
ところが現実には、白黒をつけることが難しい場面が多い。はっきり白か黒かを区別できないとなると、アメリカ人はどうしても不快感をもつのである。

だが、日本人は違う。むしろ「ぼかし」てあること自体に意義があるのだ。
人の気持ちがわかる、心が広い、角がとれている、一人前だ、大人だとして、ぼかした表現を尊重している。
「クディラ先生、あなたはどうも物事をはっきり説明しすぎる」
大学の教授だったころ、主任教授にこう言われたことがあった。教師が学生に明確に説明してどこが悪い。当たり前じゃないか。
カチンときた当時の僕は、相手が考えて参加できるような要素を残しておかないと、日本人は納得したり、尊敬したりはしないのだということに気づいていなかった。
モノクロの世界とセピア色の世界とを僕はまだ自由に行き来できないでいた。

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