コラム

クジラの世渡り

第29回 論より論理的であれ

男は論理的、女は感情的などとよく言うようだが、僕の見るかぎり、日本人は男も女も論理的な表現を苦手とするように思われる。

日本では、「お久しぶりですね。いつぞやはどうも」からはじまって、家族の近況、野球の話、共通の知人の動向などをひとしきり話したところで、
「さて」
と切り出す。その「さて」の後がまた長い。
まるで思いつくがままに話しているようだ。情報をテーブルの上にべちゃっとこぼして、こちらの頭(タオル)で吸い取って整理しろ、と言わんばかりだ。アメリカ人は頭の構造が違うから、そんなことはとても無理だ。

すっきりと整理されていないから、重複した情報を何回も聞かされることになる。繰り返し聞かされることで、こちらは、ああこれが主眼点だなと気づく仕組みになっている。
「A案は不採用としたいと思います。その理由は、一つは輸送費の問題です。表1の数字にそれは明らかであります。さらに第二点としましては…」
などと、会って三分後に切り出されたら、日本人なら、なんてつっけんどんでドライな奴だと思うだろう。
長々とした状況説明の中でぼかしながら繰り返すのが誰をも傷つけぬ法、しかも相手に対する親切ということらしい。

しかしアメリカ人は、とてもそうは受けとれないのである。
必要以上に繰り返されると、自分が侮辱されている気になるのだ。繰り返して説明しなければ僕には理解できないとでも思っているのだろうか、と腹立たしく思うのである。
エスカレーターに昇り降りの表示がしてあるのを見たあるアメリカ人は、見ればわかることをわざわざ表示するなんて、人をバカにしている、と怒っていた。

日本では親切とかていねいとか好意的に受けとめられていることが、アメリカ人には侮辱と受けとめられるのである。
「傘のお忘れものが多くなっております。お降りの際は、十分お気をつけください」
雨の日の電車で繰り返される車内アナウンスも然りである。

自分に関係のあるところだけ聞きとって、あとは無視すればいいと教えてくれた日本人がいたが、そういう整理法は僕らアメリカ人にはなかなかできないことである。
また逆に、自分が侮辱されたと思う代わりに、繰り返し繰り返し同じことを言う相手を、頭の悪い奴だと思うこともある。

日本人の話の組み立て方は、かなり経験豊かな外国人にとっても理解しにくいところである。
僕の会社の翻訳部長はかなり日本語が達者だが、それでも日本人の話はわかりにくいという。
僕と彼がある企業に赴いたときのことだが……。

先方の担当者は、ああだこうだといろんな角度から企画について説明をした。説明と意向を述べた時間は一時間にも及んだと思う。我が社にとっては、かなり好意的な話であった。
しかし、翻訳部長は帰る道みち僕にたずねるのだった。
「結論は何だったんですか」
「結論は出ていない」
「じゃあ、いったい何しに行ったのかわからないじゃありませんか」

彼は言葉の上では担当者の話を理解していたのだが、その説明の組み立て方が複雑すぎて、結局、言わんとすることがよくわからなかったのである。
先に書いた時間に対する考え方が大きく違うこともあって、長時間にわたる情緒的コミュニケーションが作り上げる人間関係というメリットを、外国人はなかなか理解できないのである。

ここはひとつ日本人のほうから歩み寄って、ビジネスライクな論理的説明を心がけたほうが僕には早道に感じられるのである。

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