コラム

クジラの世渡り

第39回 オフィスは喫茶店にあらず

「いらっしゃいませ。どうぞ」うやうやしい挨拶とともに、女子社員が訪問客の前にお茶を出す。客が日本に不慣れなアメリカ人の場合、出されたほうは、内心「へえ、ここじゃ私はかなりの重要人物と見られているらしいぞ」と悦に入る。ところが、これが大きな間違いなのである。

オフィスにおけるお茶の接待の意味が日本と米国とではまるで異なるのだ。型通りの名刺交換や時候の挨拶がすむと、頃あいを見計らったように出てくる日本の「お茶」に何ら深い意味はない。日本人が好む一つの「型」にすぎないのだ。挨拶がすみ、お茶が出て、一呼吸おいたところで「さて」と本題に入るのが日本のビジネスマンの習慣なのである。話を切り出すための重要な間でもあるのだ。訪問客が会社にとって重要な人物であるかどうかの査定ではない。これが私には最初わからなかった。

米国では、会社の訪問客にお茶の接待をすることはまずないと言っていいだろう。相手がよほどの重要人物か、個人秘書のいる場合は別である。だいたい、社内に訪問客用の茶器を備えるという習慣がない。社員どうしの間でも係や当番がいて、時間がくるとお茶の支度をする日本とはまるで違う。米国で勤務中にお茶を飲もうとすれば、備えつけの自動販売機にコインを入れ、紙コップに注がれたコーヒーを流しこむことになる。つまり、セルフ・サービスというわけだ。

こうした習慣の違いに最初はどきまぎした僕も、やがて慣れた。慣れてしまえば日本の会社でのお茶の接待も自然に受け入れられる。このごろでは、訪問先でお茶が出なかったりすると、「あれ?」と思うほどである。日本では会社が一つの「家」に近い存在であることはよく言われる。だとすれば、「家」にきたお客さんを「家人」たる社員が茶菓でもてなすのは当然ということになる。このことは、お茶のもてなしが、米国でも、家庭では普通に行われている点を考えるとよく理解できると思う。私が子供のころは、隣の家を訪ねて、ホカホカに焼いたパイとコーヒーのもてなしを受けるのが常であった。それは近所どうしの親しさの現れであり、連帯感を増し、いざというときの団結の基盤をなすものであった。大人たちも親しい友人の家を訪ね、コーヒーとケーキで談笑することを最高の楽しみとしている。

フロリダにいる僕の友人は銀行の会長であるが、彼を訪ねてもお茶が出てくることはない。代わりに、彼自身が自動販売機まで行って、紙コップに入ったコーヒーを持ってきてくれる。僕にとっては何ともくすぐったい行為なのだが、それは友人としてのもてなしであって、銀行の会長が客を接待しているのではないのだ。「あの会社では自分にお茶の一杯もださなかった。何か気に入らないことでもあったのだろうか?」アメリカの会社を訪問して、そんな風にひがんでみたことのある日本人ビジネスマンは意外に多いかもしれない。話のきっかけがつかめず、冷汗をかいた経験の持ち主もいることだろう。しかし、たかが一杯のお茶のあるなしで商談に入る前から意気消沈していたのでは、まとまる話もまとまらなくなる。昔から言うではないか、「武士は食わねど高楊枝」。オフィスでのお茶など時間の無駄と思うぐらいの心意気をもって欲しいものである。

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