コラム

クジラの世渡り

第51回 チップは世界をかけめぐる

様ざまの難関を乗り越えて食事が終わると、会計である。あなたが招かれた客であるなら「ごちそうさまでした」ですむわけだが、もし払う側ならば最後のハードル、「チップ」の問題を解決しなければならない。日本の場合、ホテルや飲食店では「チップ」はサービス料として一割が源泉されるのでほとんど心配する必要はないが、欧米ではそうはいかない。一歩日本を出たら最後、チップは教養ある人間の常識なのである。

日本人がハワイなどに大挙して押し寄せるようになったころ、常に問題になったのがこのチップであった。なにしろチップを払わずに平気で店を出ていこうとする客が後を絶たなかったのだ。これは「食い逃げ」と同じ行為なのだが、日本人には理解できなかったらしい。客の無礼にカンカンになって怒るウエイターに逆にかみつく日本人もいたりして、ひところのハワイではチップをめぐる日本人と現地の人間とのもめ事が日常茶飯になっていたほどである。僕も何度かそういう場面に出くわしたことがあるが、何とも見苦しい光景である。いっしょにいる者は、穴があったら入りたい気持ちにさせられてしまう。それに懲りて、現在ハワイなどでは日本と同じ源泉方式をとっているところが多いようだが、それは例外。観光収入を大きな財源にしているハワイで、しかも客のほとんどがチップに対する理解のない日本人であるからこそとられた苦肉の策なのだ。香港でも日本人観光客が増えたので、ごく最近になって源泉方式をとり入れたようだが、決して日本の常識が世間に通用するものではないことをご承知おき願いたい。

「やれやれ、日本人ばかり大変な目にあうなあ」とこぼす方のために、僕が四谷のとんかつ屋で体験した面白い話を披露しよう。ある日、西洋人の夫婦がその店に入った。僕より一足早く食事を終えて店を出た夫婦の後を、女店員があわてふためいて追いかけて行った。彼らの後ろを歩きながら僕が見ていると、女店員は西洋人夫婦に金を押しつけてまた走って行った。心配そうな表情で女店員の走り去る姿を眺めていた夫婦は僕を見ると声をかけてきた。「どうもチップが足りなくて怒ってしまったらしいんです。どうすればいいですかね」僕は来日後まもないころの自分を思い出して、夫婦に同情しながら答えたものだ。「いいえ、ご心配には及びません。この国ではチップを渡す習慣がないんですよ。まったく払う必要がないんです。彼女は言葉がわからないので、ただお金をつっ返したんですよ。悪気はないんです」僕の返事に夫婦はほっと胸をなでおろしていたが、チップについては何も日本人だけが困惑するとは限らないのである。

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