コラム

クジラの世渡り

第58回 酒は静かに飲むべかりけり

「クディラさん、日本人というのはどうして酒が入ると人格まで変わってしまうんでしょうね。カラオケバーとやらで下手な歌まで聞かせられて参りましたよ」日本に来てまもないアメリカ人が日本式の宴会に招かれると、たいていこんな感想をもらすことになる。日本では、きわめて紳士的な人物も、酒が入ると饒舌で騒々しく、軽薄な人物に豹変してしまうことが多い。何より困るのは、招いた客がグデングデンに酔っぱらうまで飲ませることを接待と考えている点である。「疲れた。もう飲めない」ということをやんわり遠回しに言っても、ぜんぜん聞いてくれないのだ。「何言ってるの、クディラさん。まだまだいけますよ。さあ、次へ行きましょう!」こちらの大袈裟なため息にも気づいてくれず、二次会、三次会へと連れ回す。僕は時どき故郷の町を思い浮かべて、東京があそこのように田舎だったらとしみじみ考えたものだ。

僕の故郷に飲み屋は三軒しかない。宴会をしようにもたった三軒ではすぐ満員札どめになる。ところが、東京の繁華街となると飲み屋は星の数ほどあるから、東京中のビジネスマンがある晩いっせいに飲もうということになっても、行く場所には事欠かないのだ!世界広しといえども日本ほどバーが多い国はないだろう。十階建のビルがあれば一つのフロアにたいてい四、五軒のバーが入っている。何のためにこんなにバーがあるのかと最初は不思議だったが、日本で長く暮らすうちにそのわけがわかった。バーこそいちばん有効なコミュニケーションをはかる場なのである、そして酒は、日本人が人との交流をはかろうというとき、片時もなくてはならないものなのだ。だから、上司が部下と膝を交じえて話し合いたいときも、「君、帰りに一杯つきあわないか」となるわけだ。かくいう僕も、今では社員といっしょにバーや焼き鳥屋で一杯ひっかけながら内輪の話をする習慣が身についてしまっている。だから、アメリカから来た友人、知人が日本人の酒について批判的な意見を口にしている場にいあわせると、実のところ、すごく居心地が悪いのだ。どちらの気持ちも僕にはよくわかっているからである。

古来、酒が人類共通の享楽の一つであることは確かだが、日本ほど酒の効用が説かれ、酒のみが大切にされる国はないのではないかと思う。感じやすく、自分を全面に押し出すことの苦手な日本人の多くは、酒の力を借りて別人のように変身し、普段なら口にできないような強気なことも平気で言えるようになる。それがたとえ無礼な態度であっても、「まあ、酒の上のことだから」と誰もが寛容に受け止めてくれるのだ。酔っぱらってだらしなくなることが決して恥ではないということは、酒を飲んでも自分を失わず、酔ったふうを見せないでいる人間を逆に警戒心の強い、親しみのない人間と考える一因にもなる。酔った勢いで日ごろ言えないことを言うのは、僕たち欧米人の感覚からすれば大変卑怯な、男らしくない態度ということになるが、日本では「腹を割った」態度として肯定される。だからといって、どちらかがまちがっているというのではないのだ。

慣れない欧米人の接待に、とにかくたくさん飲ませ、うちとけて物が言えるようにしなければと、相手の迷惑顔にも気づかず、必死で飲めない酒をあおる営業マン。しかしその涙ぐましい努力が、人前では決して酔わない主義の欧米人には通じず、双方とも疲れ切ってお開きになったのでは会社の経費を無駄にするようなものではないか。かつて高度成長下の日本の巷でこんな歌が流行った。

ちょいと一杯のつもりで飲んで
いつのまにやらハシゴ酒
気がつきゃホームのベンチでごろ寝
これじゃ体にいいわきゃないよ
わかっちゃいるけどやめられない

しかし、今や日本も低成長時代だ。上司の誘いをあっさり断れる「新人類」も現れてきた。酒との付き合いも、「量」から「質」へ方向転換する時機かもしれない。ところで、まさか接待の質の向上をはかっているつもりではあるまいが、カラオケバーなるものには面食らうばかりである。あれもつまるところ酒の延長で、唄いたくないと言っても通用しない。「みんなが唄っているときに一人だけなんだ、気取るな」ということらしい。いやいやながら下手な歌を唄って惨めな気持ちになっている者に向かって、「いいそー、もう一曲行け!」とはやしたてる姿はどう見ても紳士のものではない。歌人・若山牧水はこう歌っている。

白玉の歯にしみとほる秋の夜の
酒はしづかに飲むべかりけり

人生の一刻を一人で、またはごく気の合った友人と共に、静かに杯を傾けてすごす喜びこそ、酒が本来もっていた魅力なのではないだろうか。

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