コラム

クジラの世渡り

第64回 「どうもどうも」で頭も下がる?

「日本人のお辞儀にはどうもついていけませんよ。男が頭を下げるなんて!」欧米人がお辞儀に抱く抵抗には、握手に対する日本人のためらい以上のものがあるかもしれない。僕も、日本に来た当初はお辞儀をしたことがなかった。お辞儀は召使が主人に対して行うもの、言わば相手より自分が劣っている場合にするものと考えていたからだ。アメリカンフットボールの選手、そして海兵隊の軍曹だった僕にとって、大袈裟に言えば、お辞儀は男たるものが死んでもしてはならない敗北の証拠であった。しかし、人間の信念というのも当てにはならない。日本に長くいるうちに、日本人が僕に対して気軽に下げてくれる頭を、立って見下ろしているのがつらくなってきた。お辞儀をしてくれる人びとの中には、僕とは何の利害関係もない人が数多くいる。彼らは僕への親しみや好意を表そうとしてお辞儀をしてくれるのだ。

「弱ったな。きっと僕がお辞儀の意味をわからないと思ってがっかりしているだろうな」何だか申し訳ないと思う気持ちが、お辞儀に対する僕のかたくなな心情をときほぐしていった。僕の重い頭が少しずつ下がりはじめたのだ。背骨の弾力性は相変わらずで大して丸くはならないが、今では、仕事の注文が入ったときなど、相手が電話の向こうにいる場合でさえ、「いやあ、どうもありがこうございます」と自然に頭が下がっているのである!このように、単なる形式と割り切ることのできない、生理的、心理的な抵抗を乗り越えるのは誰にとっても難しい。もう一つ、僕の経験した例をあげてみよう。

それは酒の席でのことだった、僕と飲んでいた日本人が自分のあけた盃を振って僕に差し出したのである。それに続く彼の所作から、どうやらその盃で僕に酒を飲めと言っているらしいと分かると本当にびっくりした。何たる侮辱、と憤然とした顔をしている僕の様子を察して相手の日本人も盃を下げてくれたが、彼も内心では「何て失礼な奴だろう。これだからアメリカ人は嫌いだ」ぐらいのことは思っていたに違いない。今となっては、それが最大の友情の示し方なのだということも、日本では酒が諸々の不浄を清めると考えられていることもよくわかる。それどころか僕のほうから盃の交換をすすめることもあるほどだが、抵抗なくできるようになるまでには時間がかかった。僕は、自分でいうのも何だが、生理的な違和感を克服しやすいタイプだったのかもしれない。多少鈍感なくらいなので助かっているが、これが感じやすい人間であったら、いちいち苦しむことになるかもしれない。

たとえばこんな場合もある。日本の企業との合弁会社を経営している友人がいる。僕がある日、来日後しばらくたった彼と昼食を共にしたときのことだ。日本人社員とのコミュニケーションの具合はどうかと尋ねると、彼は「それがぜんぜん、うまくいっていないんですよ」と暗い表情になって言うのだ。よく聞いてみて、なるほどと思った。彼は事前に日本について勉強しすぎたのである。そして、彼を迎える日本人たちもアメリカ人の習慣について予備知識を蓄えこんでいたからたまらない。彼がお辞儀でいこうとすると、相手は握手を求めてくる。じゃあ、アメリカ式で通そうとすると日本式が顔を出す……。「どうしてこうなってしまったのかなあ」そう眩く彼の姿は、有能なビジネスマンというにはほど遠く、僕は心から気の毒に思ったものだ。

「郷に入っては郷に従え」といっても、相手の出方を見ながら歩を進めないことにはかえって話がこんがらがってしまう。無理に相手に同化しようとしては混乱が生じるばかりだ。「習うより慣れろ」がやはり外国生活のコツなのかなあと改めて考えさせられた次第である。

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