コラム

クジラの世渡り

第65回 つぶれたって顔は顔

生き馬の目を抜くような現代の競争社会にあっては、競争相手にほんのわずか遅れをとっただけでも致命傷になる場合がある。見切り発車は危険を伴うが、それでも敢えて一歩先んじなければならないことがある。アメリカの企業が日本の企業と合弁で事業を進めようというときに困るのが、いざという場合の日本企業の決断の鈍さである。「あわてて結論を出して、もし失敗したらどうします?ここはもう少し慎重にいきましょうよ」 日本人はよくこういう返事をする。しかし、と僕らアメリカ人は思ってしまう。

「もし失敗したらその時はまたやり直せばいいんじゃないか?」 この失敗に対する考え方の違いはビジネスの上でしばしば問題になってくる。日本にも試行錯誤という言葉はあるのだが、もっぱら学習の場で使われるだけで、実際のビジネスの場においてはほとんど死語と化しているのだ。おそらくこれには日本企業独特の終身雇用制が影響しているのだと思う。安定した生活を望むのは誰しも同じだから、不況、倒産といった不慮の事態が起こらないかぎり、定年まで勤めていられる終身雇用は最も居心地がよい制度なのであろう。

しかし、定年までのコースが最初からほぼ決まっていたのでは、誰だって冒険はしたくなくなってしまう。大きな失敗をして出世の道を踏み外しては大変だし、小さな失敗も積み重なると給与や賞与の査定に響いてくる。勢い、日本のビジネスマンは自己防衛の手段ばかりを身につけることになってくる。それに加えて日本人は非常にメンツにこだわり、「顔がつぶれる」ことを実に嫌がる。仕事の上で失敗し、何らかの処分を受けたりしようものなら自殺までしかねない感じがする。一つの仕事、企業から外されるということは、終身雇用幻想に生きる日本人にとっては、収入や仕事だけの問題ではなく、一つの社会から疎外されるという意味をもつからだろう。

これには周囲の目というものも関係してくる。上司に叱責される同僚の姿に、「思い上がって余計な真似をするからさ」ぐらいの感想しか抱かない雰囲気がある。「出る釘は打たれる」という諺があるが、あるレベルから突出しようとする者に対しては決して拍手をおくらない。それだから、思い切ったことをしようとする者は、会社を辞めてもいいぐらいの覚悟が必要になってしまうのだ。だが辞職も、それに伴う転職のどちらも、大変勇気のいることだ。自分自身はもとより、家庭も納得させられるほどの強い決意がないかぎり、辞職、転職は挫折と同じことになってしまう。だから、首を賭けることになりそうな事柄からは誰もが尻込みしてしまうのだ。そうすれば失敗もないし、そのために顔がつぶれる心配もない。

先日、アメリカで二人の政府官僚が職を辞した。自分の進言が大統領に受け入れられなかったことや人事問題での不満が理由であったらしいが、僕はそれについてある新聞のコラムを興味深く読んだ。その筆者は、先の売上税導入が失敗に終わったとき、一人の大蔵官僚も辞職しなかったことを取り上げていたのである。彼は、「自分が辞めたところで組織は何も変わらない」との考えが官僚たちにあったのだろうと推測している。つまり、意地を通したところで何にもならないのなら、大蔵官僚としての地位や安定を捨てることはないと思ったからではないか、と言っているのだ。さらに筆者は、「花は桜木、人は武士」の言葉を上げ、「今では武士はアメリカにいるらしい」と結んでいる。僕はそれを読んで「ふーん、なるほど」と思った。武士こそは「メンツ」を生命以上に重んじるという独特の倫理を作り上げた人びとであろう。顔をつぶされたときには「死」をも辞さない階級であったのだ。その「メンツ」に対する伝統的な感覚が日本でも変わりつつあるというのだろうか?

そうではないと僕は思う。恐らく、断腸の思いをした官僚たちも数多くいたことだろう。ただ、彼らはその失敗を組織全体のものと捉えることで自己を免罪したのであろう。まだ自分の顔はつぶれていないと自分に言い聞かせ、鏡の前を避けて通りながら定年までの日々を送ろうというのではないか。つぶれたって顔は顔だとは誰も思っていない気がするのだが、あなたはどう思うだろうか?

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