コラム

クジラの世渡り

第66回 鰯の頭も信心から

日本のビジネスマンに関する不思議の一つに、会社に対するloyaltyの表現がある。誰でも、自分が属する組織に親愛の情を抱くのは自然なことだ。僕も海兵隊にいた頃は、自分の属している小隊を海兵隊でいちばんよい小隊だと思っていた。別の小隊に移ればそっちをいちばんと思った。これはきわめて自然な感情である。日本人ビジネスマンの愛社精神もそのようなものだろうと思っていたが、どうも少し違っているようなのだ。

彼らは、僕ら欧米人に対してよく「日本の会社は……」という表現を使う。一般論として述べるからには、「ははあ、この人はかなり転職をして、多くの会社を経験しているんだな」と感心すると、「いや、私は今の会社にずっと勤めている」と言う。それならどうして「日本の会社は……」などと大きなことが言えるのだろう。つまり彼らには自分の所属する会社こそが全てであり、世界の中心なのだ。「鰯の頭も信心から」というが、自分の会社に対する信仰も、度を過ぎると周囲が見えなくなり、同業他社との競合にかえってマイナスになってくるのではあるまいか。しかし、他人からは馬鹿馬鹿しく見えても、信じている人間にはそれなりの幸福があると言えるかもしれない。他はいっさい受け入れず、会社と心中しても悔いはないというのなら、「どうぞお好きに」というだけのことだ。不幸なのは、信じてもいないのに信じたふりを装わねばならない場合である。

僕の会社の社員がある自動車メーカーを訪問したときのことだ。その社員の車はたまたま訪問先の会社の競争相手の製品だった。彼が帰った後で電話がかかってきた。「お宅の社員はどうして我が社の製品に付き合わないのか」というのである!僕は文字通り開いた口がふさがらなかった。電話の向こうにいる人物がどんな顔をしてこんな馬鹿げたことを言っているのかと思ったのである。彼は常識ある家庭に育ち、高等教育を受けた、ごく普通のビジネスマンであろう。そのごく普通の人間がこんな無理無体なことを要求してくるのだ。単に取引を行いたいという相手に対してすらloyaltyを求めるくらいである。これではAという自動車メーカーの社員は全員A社の車以外には乗れず、Bという家電メーカーの社員は全員がB社製のテレビを備えなければならない理屈になってしまう。そして驚くべきことには、どうやらそれが実際に行われているらしいのである。社員の自発的な意志というより、そうしなければならない雰囲気が会社の中にあるのだとしたら問題ではないだろうか?アメリカの企業ならそこまでのloyaltyを求めることのほうが恥と思うはずだ。

義務感で行う仕事からは創造性は生まれにくいと思う。もし社員が解雇を恐れて、「うちの社の製品よりA社の製品はこの点で優れている」という事実を口に出すことができなかったとしたら、その社の製品はいつまでも改善されずに競争に負けてしまうではないか。同業他社の車で乗りつける社員がいたら、「へえ、いい車だなあ。どこが気に入って買ったんだい。参考にしたいから意見を聞かせてくれよ」というぐらいの余裕がなければ社内の活性化などはあり得ないと思うのだが……。「クディラさん、そうは言っても、日本がここまで経済発展を遂げることができたのには、各企業の全社員があげて会社に対するloyaltyを発揮してきたからということもあるんですよ。何といっても会社は一つの運命共同体ですからね」 そう。日本人にとっては会社はただのビジネスの場ではないのだろう。会社は一つの家、社員は家族の一員なのだ。制服も社歌も、自社製品使用の徹底ぶりも、家庭を円滑に営むために家族めいめいが果たす義務のようなものなのだ。

その会社にいることが自分に有益かどうかを常に考え、自分をより活かせる場を求めて幾つかの会社を渡り歩くアメリカ人には、日本人のような帰属意識は育たない。会社の外へ一歩出れば彼はジョンとかミラーとかいった個人にかえってしまう。それがアメリカのビジネスマンのごく一般的な姿なのである。酒場などで、退社後のビジネスマン同士が、「うちの社は云々」と自慢げに話しているのを耳にすることがある。グチの場合もあるが、それもまるで家族の誰かについての打ち明け話のように聞こえる。僕にはそんな日本のビジネスマンがいじらしく思えてくることがある。彼の「家庭」よ、いつまでも円満であれかし!と願わずにはいられないのだ。

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