コラム

クジラの世渡り

第67回 人は見掛けによらぬもの

『刑事コロンボ』というテレビドラマがある。ピーター・フォーク演じるところのむさくるしい刑事が、見かけによらない超明晰な頭脳を駆使して、主に上流階級の人間が犯した完全犯罪の謎を解きあかしていくおなじみの話だ。このドラマでは、殺人者は犯行後、何食わぬ顔で自宅やオフィスに登場する。彼は自分の書いた完全犯罪のシナリオに絶対の自信をもっていて、マホガニー製のデスクについて秘書からスケジュールの説明を受けたりする姿にも自然な威厳が漂っている。ところが、そこへよれよれのコロンボが現れ、「私、ニューヨーク警察のコロンボといいますが……」と口にしたとたん、彼の敗北は既に決定していることが視聴者にはわかるのである。僕にはこのお定まりのシーンがこんなふうに見えて面白い。つまり、贅をこらしたオフィスは完全犯罪などを企てる人間にふさわしい見栄と傲慢を表し、そこへやって来る一見ヤボでむさくるしいコロンボの外見は、むしろ彼がその頭脳において殺人者を完全に凌駕していることを巧みに暗示しているのではないかと……。

余談はさておき、概してアメリカの会社は外観に金をかけることを好む傾向がある。あのマンハッタンの摩天楼を知らない人はいないと思うが、現代のバベルの塔ともいうべきその威容からして、僕には押しつけがましく無益なものに思えてならない。「立派なオフィスは客の信用を高めるじゃありませんか。貧乏たらしい会社に誰が大切な仕事を任せたりしますか?」 それは業務内容によるのだ。たとえば銀行などは、ある程度の外観を保たないと客は業績を疑って金を預けるのをためらうかもしれない。しかし、一般の会社が外観だけに凝るのはむしろマイナスだと僕は思う。客は、これから自分が契約しようとする相手に対してつねにイニシアチブを握っていたいものだ。それが自分の会社以上の構えでふんぞり返っていれば、「何だこいつのところは、いやに威張っているじゃないか」と鼻についてしまう。地味な構えは謙遜に等しい。控えめな外観のわりには立派な内部、たとえば客を迎える応接室が比較的立派にしつらえてあれば、客はこう思うのではないか―「ほほう、この会社は分を心得ているようだし、客を大切に扱う気持ちがあるらしい」と。

フロリダにある友人の銀行のオフィスは、日本ではちょっと見られないほど贅沢なものである。素晴らしい会議室がある。そしてそこには誰も入っていない。いつ行っても空っぽである。まるで高級家具店のショールームのように、使われることのないままそこにある。また、ある不動産会社の役員室を見たことがある。樫材を磨きあげた素晴らしいテーブルがあり、十六人分の革張りの椅子がある。そこに座るのはたった三人であるという。それなのに社長は、この豪華な調度で客の信用を高めているつもりでいるのだ!

ひょっとすると僕は、日本の経営者の感覚で物を言うようになってしまっているのかもしれない。しかし経営者である以上、それが効率的で、業績の向上に役立つと思える投資でなければやらない、というのは当然だとも思えるのだ。先に登場した銀行の会長が訪日して、僕の会社にも顔を出した。彼は僕の経営ぶりを実際に見て、なるほどこういうやり方もあるのかと僕の方針に納得してくれたようだった。アメリカで通用するかどうかはともかく、ソファーの生地に金をかけても利益にならないことはわかったらしい。「クディラ君、君の会社の社員たちは実に一生懸命働いているね。どうやら彼らには無駄な室内装飾など必要ないようだ。僕もアメリカに帰ったら少し銀行を変えるかもしれないよ」こう感想をもらして帰っていった。

日本にある外資系の企業は、千代田区や中央区など一等地の、マンハッタンからもってきたようなビルに入っている。そのくせ社内ではペーパークリップ一つにもケチケチし、接待交際費といった、日本ではかなりおおらかに使われる費用は出し惜しみしている。原価意識が違っているのだからやむを得ないが、日本企業から見れば矛盾している面もあるのは確かだ。ただ一つだけ言えるのは、どんなオフィスであれ、そこは社員が生きいきと働ける場でなくてはならない。そのためには経営者の意図するところが社員全体に正確に伝わっていなければならないだろう。豪華な外観が必要か不必要かもそこで初めて決まるものかもしれないのだ。

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