第71回 我が子可愛さは日本人の特許ではない
人の心もまた、全人類に共通のものだ。「我われ日本人は自然を愛している」 誇らし気に日本人は言う。日本庭園、盆栽、盆石、生け花。花鳥風月に興じる心は確かに優れているのだろう。だが、フラワーアレンジメントに感動するアメリカ人もいれば、月を風流の対象ではなく、探求の対象とする日本人もいる。ロッキーの大自然を描く風景画家はアメリカにもいるし、残された美しい自然を宅地にしてしまう日本人もいる。アメリカ人にとって虫の音は騒音だ、とした論文が発表されたことがある。これはどういうレベルで言っているのであろうか。蚊がブーンと飛んで来たら、実に嫌な音だと思うのは、日本人もアメリカ人も同じではないだろうか。いや、そんなレベルじゃない。スズムシを愛でる心がアメリカ人にはない、という意味だよ、と反論されるかもしれない。確かに虫の音を微妙に聞き分けてそこに詩情をくみとってゆくことは、僕らの得意とするところではない。しかし僕にとって、たとえば蟬の音は夏到来のラッパである。子どものころから蟬の音にはわくわくするものがあった。夏だ、夏休みだ!虫の音に対する心の動きの方向、いわば見る夢の違いにすぎない、とは言えないだろうか。蟬の音に心地よいノスタルジーを感じるアメリカ人の僕、スズムシの音を美しいと学んだアメリカ人の僕は、件の論文が、本来、問題とはなっていないところをことさら相違点としてとりあげ、一種ステレオタイプ化した結論しか出せなかったことのほうに、むしろ問題を見てしまうのである。
もっと卑近な例もあげてみよう。「日本人は『ノー』と言うのが嫌いでしてね」 こう言い方の裏には、欧米人のように平気で「ノー」とは言えないんですよ、というニュアンスがみてとれる。僕らは「ノー」と言うのが大好きだとも思っているのだろうか。経営学にこんな知恵がある。いちばん言いやすいことばは「イエス」。誰でも言えることばである。いちばん言いにくいのは「ノー」である。「ノー」は僕らだって言いにくいのだ。だが、イエス、イエスでは経営も管理もできない。「給料が安くって嫌んなっちゃう」 「そうだね」 社員どうしならこれもよいだろう。だが経営者がイエスマンだったらどうなるのか。「給料上げてください」 「はい」 「この額では契約がとれません。三百万まで下げてもいいでしょうか」 「原価割れだけど、はい、いいでしょう」 これでは、昇給どころか、会社自体の存亡もあやうい。できれば「イエス」と言ってやりたいのはやまやまである。だが、立場上「ノー」と言わなければならないのだ。日本人経営者にしても、ノーと言うのが苦手だからといって、イエスマンを貫いてはいないはずだ。もちろん日本人なら、例のきわめつけのテクニック、ぼかしのテクニックで「ノー」を伝えるかもしれない。
白黒はっきりさせたほうがいいのだ、はっきりさせるほうが結局は相手のためだという思いは、僕ら欧米人のほうが確かに強いかもしれない。しかし、「ノー」と言うのが辛いのは同じである。言わねばならないから、仕方なく「ノー」と言っているのだ。僕は教師を辞めて経営者になったが、「ノー」という言わねばならぬ場面が増えたために、確実にストレスがたまっている。教師のままでいたなら、こんなにも「ノー」を連発せずにすんだのに、と条件の折り合わない折衝のたびに、そして次々と出てくる社員の要求に対処するたびに経営者であることをうらめしく思ったりしているのである。異文化に関する専門家たちの発言によく登場するのは、「甘え」「本音と建前」「武士道」などという言葉である。いずれも文化の違いを強調しようとする際に使われているようだが、果たして本当のところはどうなのだろう。確かに「甘え」といううまい英語はない。うまい英語はないのだが、では、次のような状況は「甘え」ではないのだろうか。
アメリカに住む僕の母親の話である。久しぶりに帰国した五十すぎの僕に、母はこう言うのである。
「フランク、おまえはいい息子とはいえないね」 「どうして?僕はお母さんを悲しませたことはないつもりだよ。確かに、遠く離れて住んでいるから淋しい思いをさせてはいるけど、迷惑をかけたことはないじゃないか」 「十七で家を出てから、一度だって私を頼りにしてきたことはないじゃないの」 「え?」 「親というものはね、子供の役にたちたいものだよ。何かしてあげたいんだよ」 これは、母がまさに僕の甘えを期待していることではないだろうか。僕も子供をもってみて初めて知った感情である。子供が自分にみせる甘えには、何ともいえない麻薬のような要素がある。僕らだって「甘え」を知っているのである。
今度は、僕の子供の話をしよう。まだヨチヨチ歩きだったころ娘はよく転んで泣いたものだった。ハーフということで近所では注目の的だったのだろうか、転んで泣いている娘を、誰かれとなく抱き上げてくれようとするのだった。「大丈夫です。自分で立ちますから」 僕がこう言って彼らの動きを制止するたびに、彼らは怪訝そうな顔をした。僕にこう言ったオバサンもいた。「アメリカ人は、親の情ってものが薄いのかしらね」 僕は心の中で眩いた。これが僕らの建前なのです、と。つまり、自分の始末をできるように育てることが親の役目、これが躾だと思ってやっているにすぎないということだ。僕だって、我が子が可愛くないはずはない。泣いている娘を抱き上げて、頬ずりのひとつもしてやりたい、というのが本当のところ、つまり本音だ。アメリカ人の僕も、本音と建前とを区別しその間でゆれ動いているのである。「本音と建前」は、日本人だけの特権ではない。ただ、いつ、どこで、どこまで建前を貫き通すか、という違いだけなのだ。
「武士道」というものだって、僕にはそう遠いものとは感じられない。新撰組に感動し、男と男の気持ちの通い合いに涙する僕みたいなアメリカ人だっているのである。僕の軍隊経験が、男と男が命をかけることの意味を理解させているのかもしれない。こうしてみてくると、大きく違うとされていることにも、たくさんの接点が見えてくる。むしろ、たいして問題でもないことを針小棒大に相違点としてとり上げすぎているとも言えるだろう。前章まで述べてきた思想や習慣の違いもいわば水の上の膜のようなもので、それを取り除いてみると、水面下は底のほうまで透き通っているとも考えられる。うそはいけない。泥棒はいけない。一生懸命働くのは善。何故働くのか。まず食べるため、子供を育てるため。家のローン、車のローンも払わなければならない。日本人もアメリカ人もみな同じである。少し余裕が出れば出世欲にもかられる。女房から尻はたたかれるし、同窓会にも出にくいとあっては、出世もしたくなるだろう。日本人もアメリカ人も同じである。だが、飯のため、サンドイッチのため、子供のため、部長の座、社長の座ばかりを求めて働いているわけでもない。「やりがい」も一生懸命働くひとつの動機である。強いて英語で言うなら'"rewarding work" "non-monetary rewards"といったところだが、これもまた、日本人もアメリカ人も同じである。自然な人間の本能ともいえる。水の上に浮かぶ相違点にばかり目をやってふりまわされていると、コミュニケーションはうまくゆかないものなのだ。