コラム

クジラの世渡り

第72回 間間ベースのコミュニケーション

日本に来たばかりの半年間は、僕にとっていちばん幸せな時期だった。会う人会う人がみんな親切で、愛想がいい。すばらしい国だ、温かい民族だと思っていた。だが、いつまでたっても「温かい」が「熱く」ならないのだ。あの笑顔、あのうなずき、あのイエスはいったい何なんだ。不信感に陥った僕の内部では相違点ばかりがふくらみ、気持ちが通じるどころの話ではなくなった。単なる言葉の意味すら、コミュニケーションできなくなっていた。

そんな状況を救ってくれたのは、一人の友人の出現だった。酒をくみかわし、言い争いをするうちに、笑顔もうなずきも、日本語の「はい」の意味も、僕は水の上の単なる相違点としてとらえられるようになった。「クディラさん、もうかなり長く日本におられるのですから、日本のことはよくご存知でしょ。日本人のどこがいちばんお嫌いですか」 異文化の専門家にこう問われたことがある。「日本人に対して気にくわないというところはありませんよ」 と答えると、「水臭いですよ。我われは、はっきりと自分の意見を述べる人が好きです」 と言う。この人の本音と建前はどうなっているんだ、といぶかしく思いながらも、しつこく質問をくり返すので僕はこう答えてやった。「僕の嫌いなタイプはね、すべての問題を『人人ベース』で片づけてゆく人です」 「は?」 「つまりね、日本、外、アメリカといった具合に、何か不都合が起きるとすぐ国民性の問題にしてしまう人のことです。逆に好きなタイプは、『間間ベース』の人です。つまり、一人の人間対人間として関係をとらえてゆける人ですよ」

何でもかんでもステレオタイプ化された国民性に還元してしまうと、コミュニケーションの発展はもはや望めない。言葉、思想、習慣の違いを認識したところで、最終的にぶつかるコミュニケーションの要素は、個人差だからである。「我われ日本人は……」 「日本の会社というものは……」 誰しも自分の気持ちが日本を代表する典型的な感情、在り方だと思っている。だが、僕の出会った日本人は一人ひとり違うし、みなさんの周りの日本人を見まわしても、一人として同じ人はいないはずである。この十年あまり、あらためてコミュニケーションをするという意識で日本人と接することが僕にはなくなった。初対面の日本人に会うときも、一人の人間として出会うとしか考えていない。間間作戦というわけだ。国籍を付き合いに入れてしまうと、水面上の膜が眼のくもりとなる。眼がくもってしまったら見えるものも見えなくなり、コミュニケーションも理解もあったものではない。

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